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柳宗悦「茶と美」
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 柳宗悦選集第六巻の「茶と美」を久し振りに手に取った。若い頃夢中になって読んだもので、私の書はこの「茶と美」によって方向が与えられたといえる。開いてみると、また胸がときめいてきた。
 アクロスでの「風花山叢」でお茶と花と共に楽しむことができた。とても好評で有意義な実験だった。これからの活動に積極的に取り入れていこうと考えている。多くの人が待ち望むイベントへと進化させていきたい。それでお茶のことを自分なりに考えてみようと思い、「茶と美」を手に取ってみた。冒頭に利休や初期の茶人の魅力を宗悦の目で語っていた。悠々とした爽やかな語調はぐいぐいと私を引っ張っていく。美を生みだす茶人の目の美事さを語るところは、そうだそうだと読み進んでいたが、用の美を説くところで止まってしまった。
 それは『而も見ただけではない。見ることで終わったのではない。只見ることだけでは見盡くしたとは云へぬ。彼等は進んで用ゐたのである。用ゐないわけには行かなかったのである。用ゐたが故に見得たのである。用ゐずば見了ることがないとも云える。なぜなら、よく用ゐられる時ほど物の美しさが冴える時はないからである。よく見たくば、よく用ゐねばならぬ。美を只眼で見、頭で考えるより、進んで體で受けた。言い得るなら行ひで見たと、そう云はう。「茶」は只の鑑賞とは違ふ。生活で美を味はふのが眞の「茶」である。眼先で見るだけでは「茶」にならぬ。』というところである。
 私は日頃お茶を飲みもしないのに蒐集した道具を見せたいばかりに、茶を楽しむ会を催してなにも疑問を持たずに平気な顔をしていたのである。こうなると本を読むどころではなくなった。その日から午後のティータイムは抹茶を飲むようにした。思えば「常用体」も宗悦の説く「用の美」に心打たれてひねり出した言葉である。普段使いの書にこそ真実が反映するという思いをこめていたのである。そのことは肝に銘じて暮らしていたのだが、いつの間にか傲慢な油断が生まれていたようだ。自分が身に付けた物を如何に日常に生かすか、これは日常性を余り問題にしない芸術にとっては無視できる言葉かもしれないが、私は芸術にとっても本質をついた言葉だと確信しいている。
 日日用いる書にこそ眞は宿るし、日日飲んでこそのお茶である。
by mteisi | 2010-06-24 17:35 | 手仕事


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