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慈雲尊者の無
 襌のお坊さんは禅師と呼ばれるが、慈雲さんは慈雲尊者と呼ばれている。慈雲さんは墨跡が日本的に花開いた江戸の中期の人で、大雅堂・仙厓・良寛と大体同じ時期。最も禅宗の風貌をもった書を残しているが、実は天台宗のお坊さんだった。サンスクリットを研究し梵字の書も多く残している。インド仏典から直接に教を学び、踏襲ではない自らの境地を切り開いた人だと伝わる。
 若い頃「淡遠」で慈雲さんを紹介したとき、本当の無ではなく無を気取っているのではないかと書いた。意表を衝かれることだらけで、面白いけど怪しいぞと惹かれながら思っていた。慈雲さんを知った「墨美」の特集で、書家の所感のほとんどが人間的な魅力があり素晴らしいと述べていたのに、西川寧先生だけが、よさが解らないというようなコメントを述べているのが面白かった。そのうちやっぱり慈雲さんはすごいと思うようになった。
 なにがすごいのだろか、常識外れなところだろうか、確かにそうだがそれだけでは魅力には繋がらない。多分、西川先生が疑問に思われたのは学んだ古典が見あたらないところに、評価できないものを感じられたのであろう。古典を介して書の善し悪しを決定する以外に尺度はないように思われる。いいものはいいというだけでは会話がそこで止まってしまう、終わりである。
 ところで、書ではなく文字が持つ力は何だろうと考えたとき、言葉の持つ力が大きいということに気付く。これは文学的教養もさることながら、人との対話や自然との対峙、そして自分自身への問いかけなどによって培われる人間力ということであろう。これを計る量りは、知識ではなく人間力としての審美眼であろう。さてこの審美眼を養うためにも無心で見つめ、あらゆる角度から疑い、そして感じ取るしかない。この審美眼で書を見ると歴史や技術では量れないものまで、量れるようになる。ここに書の面白さが潜んでいる。
 「圓通」に出会ったとき口があんぐりあいて、あっけにとられた。かすれから入っているし、汚している。通はにじみの塊でどうなっているんだ、というしろもの。美しさを見つけることは難しいだろう。そこに惚れ込んでしまった。「定外襌」という寉仙先生の素晴らしい書が会長の座敷にかかっているが、決まりの外に襌はある、ということだろう。まさに「圓通」は「定外襌」である。寉仙先生の「定外襌」も襌意の強い書であるが運筆のうまみや造形の作り方に歴史を踏まえた意志のやり取りが見える。慈雲さんはその世界とは違うところで人と対峙しながら遊んでいる。

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慈雲の円相に遊ぶ

 慈雲には素晴らしい円相がある。円を書くだけですべてを表すことが出来るのが円相。簡単といえば簡単だがいざとなると怖じ気づく。悟りを表す記号でもあるので、あんた悟った人かと言われそうだし、悟りっていいもんだといっているようで、とても偉そうに見えてしまう。ところがこの円はただの円、そえられた「十方佛土中」がまた楽々と書かれている。爽やかな風が通っていくようで清々しい。頭が下がるという感じは全然しない。何か格好いいものがそこにあるという感じがする。多分慈雲さんもやったと小さくガッツポーズを作ったと思う。こんな軽口が出てくるように気に入っている。良寛さんにも大雅堂にもこの底抜けの空気感はない。運筆の上手さや呼吸の作り方の上手さが目に飛び込んでくる。これはこれで心地よいのだが上手さを感じさせない字もすごい。度肝を抜かれてしまう。圧倒的な気の充満こそ人間力なのであろう。
by mteisi | 2010-11-07 07:46 | 歴史的な作家と書


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