〇△口に出会ったときにはさすがにドキッとした。よくこんなもの作れるもんだと。どういう思いでこの作品を作ったんだろう。書とはなんぞや、たんなる記号や、とでもいう禅問答かもしれんと思ったりする。だが天・地・人かなと思っている。〇は天△が人口が地だと収まりはいいがあたりまえすぎる。勝手に想像して遊ぶしかない。
仙厓さんの書は言葉がおもしろい。槌と鯛と団扇の絵を描いて、「三福を一福にして大福茶」の賛を入れている。槌は大黒天、鯛は恵比寿、団扇は布袋だという。「吉野でも花の下より鼻の下」吉野での飲めや歌えの大騒ぎの絵にそえられている。「堪忍 気に入らぬ風もあらふに柳哉」は大きく堪忍と書き、その横に風に吹かれる柳の木を描き、気に入らぬのことばをそえている。こんな気の張らない書画をたくさん書いている。まさに遊びの世界である。その遊びの中にピリリとしたものがひそんでいる。
仙厓さんの書は、画もそうだがいつも日常の普段着、気の張った特別のものではない。洒落っけたっぷりだが意表を衝くような工夫は感じない。唐以後代々受けつがれてきた王羲之風の書を自分流に思いのままに書いている、というところであろう。それがこうしてかけがえのないものとして大事に守られてきたのである。その魅力はよく見せようとしていない無造作、無作為が生みだす、飄逸な宇宙感にあると思う。捨てさることのできない大きな世界がそこにあることを、大切に守ってきた人は気づいていたのであろう。