
一之五
常季曰、何謂也、仲尼曰、自其異者視之、肝膽楚越也、自其同者視之、萬物皆一也、夫若然者、且不知耳目之所宜、而遊心乎徳之和、物視其所一、而不見其所喪、視喪其足、猶遺士也、
常季曰わく、何の謂(い)いぞやと。仲尼曰わく、其の異なる者よりこれを視れば、肝胆も楚越なり。其の同じ者よりこれを視れば、万物も皆一なり。夫れ然くの若き者は、且(すなわ)ち耳目の宜しき所を知らずして、心を徳の和に遊ばしめ、物に其の一なる所を視て、その喪(うしな)う所を見ず、其の足を喪うを視ること、猶お土を遺(おと)すがごときなりと。
常季はいう、「それはどういうことでしょうか。」孔子は答えた、「ものごとはそれぞれに違うという点からみると、[同じ体のなかの]肝臓と胆臓との隔たりでさえ楚と越とのあいだほどにもひらくことになる。しかし、その共通した点からみると、万物はすべて同一のものである。そもそもこの王駘のような人は、耳目の快感にひかれることはなくて、その心を徳の調和した境地に遊ばせ、万物についてその同じ本質をみて、形の上でのうつろいの変化をみない。その足をなくしたことなどは、土くれが落ちたぐらいに思っているのだ。」