口は目鼻の口ではなく、 神への祈りの文である祝詞を入れる器の形。 これが新説の白川学の主張。 これで語源を見直すと実に分かりやすい。
まずは舎、 今は中が吉になっているが、 本来は下に突き抜ける舍。 私達は校舎の学び舎だが、 本は捨てるの初文。 長い辛(針器)でサイを突き刺し、 祈りの働きを傷つけ、 祈り効果をすてさせることを、 舍という。 舍は「すてる」の意味となる。 今の舎は針がサイに届いてなく、 本来の字義がなくなっている。
次ぎは告。 もとの字は上を牛に作り、 木の小枝に口をつける形。 木の小枝にサイをつけて、 神前に掲げ、 神に告祈ることをいう。 漢の時代の許慎が書いた、 字典の[説文]には、 字の上の半分は牛の角であるとみて、 牛が人になにかを告げるとき、 橫木をつけた角で人に 触れるのであるとしている。 だが牛はそのようなことはしない。 告はもと神に「いのる」の意味であったが、 のち人に訴える「つげる」の意味となる。
古は、 十と口とを組み合わせた形。 十は長方形の盾の干を省略した形。 サイの上に聖器の干を置いて、 これを守り、 祈りの効果を長い間保たせることを古といい、 「ふるい、むかし、いにしえ」の意味となる。 [説文]には十人がそれぞれ 伝えて来たとしている。
さて吉、 サイのうえに士を置いている。 士は小さな鉞の頭部を下に向けた形で、 鉞は邪悪ものを追い払う力を持っていて、 サイの中の神への祈りを守り、 祈りの効果が持続し、 祈りが実現して幸せになり、 めでたくなる。 吉には「よい、しあわせ、めでたい」 の意がある。
最後は害。 もとの字は中が丰で、 把手のついた大きな針と サイの組合わせ。 大きな針で口を突き破り、 その祈りの効果を傷つけ失わせ、 祈りが実現するのをじゃまするのが、 害であるから、 害には 「きずつける、じゃまする、そこなう」 の意味があり、 そこなうことで「わざわい」が生まれる。 害も今の字は口に針が届いていない。 書きやすく簡単にすることで、 字義を失った文字は多い。
今回は白川静の「常用字解」からとった。
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